【講座開催日】2017年10月10日・17日・24日

   10月10・17・24(各火曜日)午後2時~4時 応募者56名、受講者47名、延べ133名での講座でした。講師は、彰義隊士小川椙太(興郷)子孫で東京学芸大学名誉教授 小川 潔氏が務めてくださいました。

                               

第1回目は、戊辰戦争と上野彰義隊の顛末~上野彰義隊墓所文書から~の講義でした。
概略:大政奉還後に上野の寛永寺に蟄居した徳川慶喜の警護と助命嘆願を機に発足した彰義隊はやがて反新政府の武装集団となった。慶喜の水戸退去時に寛永寺に留め置かれ、徳川家霊廟を守護した。新政府軍は、1868年5月15日、大村益次郎が上野総攻撃を仕掛けた。ちょうど150年前の出来事である。戦いは半日で終わり、新政府軍は寛永寺を焼き払い、彰義隊は足立区や東北方面に敗走し、一部は箱館戦争に参加した。彰義隊は旗本御家人の鏡とする声と、烏合の衆としてさげすむ声とに評価が分かれる。

第2回目は、生き残り隊士の戦後と上野彰義隊墓所の150年~文書と言い伝えから~の講義でした。
概略:上野戦争の戦後処理について説明された。隊士は三ノ輪の圓通寺の申請で火葬にされ、寛永寺は上野に復帰した。投獄された隊士は翌年に赦免されたが、大幅に減俸された徳川家には戻れず、牧之原開墾に向かった。小川興郷は東京に戻り、上野の彰義隊墓所建設に奔走した。墓所は1875年に完成し、現在の墓石は1884年に再建された。そして、墓所の経営に専念した小川家の日々の仕事や年間行事、資料室の開設などについて紹介された。都市公園法制定後は宗教物や私物は上野公園の中にあってはならず、東京都は「上野戦争の遺跡(文化財)」という粋な計らいで彰義隊の墓の設置が許された。小川彰(講師の長兄)の撤退に当たり、墓所の建物とともに資料室も閉鎖することになったが墓と碑文はそのままの姿で当地に残った。

                           

第3回目は、現地学習(上野公園内の史跡を巡りながら)~上野戦争の舞台となった上野の歴史をたずねる~の講義でした。

概略:小川先生が代表幹事を務める「しのばず自然観察会」が作成した『上野之杜絵図』が一人ひとりに配布され、その地図を基に西郷像→彰義隊の墓→清水観音堂→摺鉢山(前方後円墳)→寛永寺旧本坊表門→徳川家代々霊廟勅額門→寛永寺根本中堂を巡りました。清水観音堂では壁面に掛けてある額に本物の大砲の弾丸が1個飾られてあり、寛永寺旧本坊表門には銃弾と大砲の弾丸が貫通した跡が数個残っていた。上野戦争の生々しさを感じた。史跡巡りの最後は慶喜が蟄居した寛永寺の根本中堂で、庭先には上野戦争などの絵図が数枚展示されており、小川先生のそれまでの説明と重ねながら鑑賞し、現地学習を閉じた。


                              

歴史の学びの醍醐味は、史実の現地・現場に自らの体を置き、さまざまな思いを馳せることにあります。しかしこの体験は、地理的に殆んどできないのが現状です。そういう意味からも、今回の現地学習は恵まれ過ぎました。小川先生には深く感謝申し上げます。
                                                                          佐々木善光

        

あだち区民大学塾講座 講座開催報告

彰義隊の墓守の子孫が語る「上野彰義隊」の顛末

好評のうちに終了しました

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