【講座開催日】2021年10月 1日、15日、29日

講師:平野明夫 氏 國學院大學、駒澤大学講師
10月1日から「非常事態宣言」が解除されたが、十分なコロナ対策を行って、10月1日、15日、29日と金曜日の3回開催された。応募者は31名、受講者は22名、出席者は第1回20名、第2回22名、第3回22名で延べ64名であった。特に、10月1日は台風16号が関東地方に接近し暴風雨であったが多くの方に出席いただいた。
                          

第1回は「戦国大名としての徳川家康」
私達が学んだ徳川家康は、幼少時駿河の国の今川義元に人質として取られるなど苦難に耐えながら天下を取った物語である。しかし、このような歴史は家康の没後、天下人に忖度して書かれたもので家康及び松平家に都合よく捏造されている。勝者の歴史としてやむを得ないが、最近は当時の手紙、文章を解読し事実が解明されつつある。今回は、信長から家康、家康から信長への手紙を読むことで二人の上下関係の変化の説明があった。手紙の最後の日付と相手の名前の高低差により目上・対等・目下宛ての区分が読み取れるのである。これにより、信長は家康を当初目上に見ていたが、長篠の戦い以後は目下に見るよう変化したと解釈できる。

第2回は「豊臣大名としての徳川家康」
秀吉が天下を取った後、家康を警戒し遠ざけていたという説がある。しかし、「豊臣秀吉知行方目録」を見ると、秀吉は家康に伊勢の国や近江の国を与えている。これでは、大阪城にいる秀吉を狙う道筋が出来て危険だという以前の考え方があった。しかし、秀吉はこれらの領地を与えると共に信頼できる側近のみに与える「羽柴」姓を許可し、羽柴家康と名乗らせている。このことから、秀吉は家康を側近として信頼していたということが伺える。

                             

第3回「天下人としての徳川家康」
徳川軍の関ケ原の戦いの勝因は小早川秀秋の裏切りで、秀秋は裏切りを約束しながらも、戦い開始後も松尾山の陣から動かなかった。そこで家康は我慢の限界と秀秋に鉄砲を打ち込むと豊臣陣営に突撃したと学んだ。これは明治30年代の陸軍参謀本部作成の「関ヶ原の戦い」両軍配置図によって解釈されていた。しかし、当時の家康の家臣石川康通等の書状には、「秀秋等、戦いが開始されるや否や、即刻裏切り行動を起こし・・」と書かれている。このように、関ケ原の戦いに関してもまだ事実と異なることが多く発見されてくると思われる、との説明であった。

                     

受講者の声
・古文書の説明があったので非常に分かりやすかった。・理論立てていてわかり易い。・資料が多く大変ありがたい。・いくつになっても知らなかったことを知るのは楽しい。
当時の手紙、文章を読み込むことで信長、秀吉、家康関係の歴史の事実を知ることが出来たのは有意義であった。参加者の方にも概ね満足いただけた内容であった。                                           (榊原金市)



   

あだち区民大学塾講座 講座開催報告

徳川家康研究の最前線「東照神君」の実像

講座開催報告

好評のうちに終了しました

講座チラシもご覧下さい←クリック

撮影現場↑