【講座開催日】2022年6月2日・9日・16日

6月2日・9日・16日(木)に開催された。応募者57名でしたが会場の都合で抽選となり33名に受講券送付した。第1回31名、第2回31名、第3回30名で延べ92名でした。
戦国時代の足立区周辺は上杉氏・太田氏系の宮城氏と舎人氏、北条氏系の武蔵千葉氏の三氏が存在しました。武蔵千葉氏は足立区本木の中曽根城を本拠としました。中曽根城の発掘調査報告と千葉氏の菩提寺・瑞応寺と中曽根城址の現地学習で戦国時代の足立を学びました。

   

第1回 戦国時代の足立と武蔵千葉氏
講師:佐藤貴浩氏(足立区地域文化課学芸員)
鎌倉時代の足立郡の歴史をみると鎌倉初期は足立遠元が治めていましたが足立氏が滅んだ後は1456年千葉氏が下総国から武蔵国へ逃亡し武蔵千葉氏が誕生した。武蔵千葉氏の居城が中曽根城だった。平成6年に中曽根城の堀跡が発見された。東京低地に存在した城として貴重な事例である。戦国時代は岩付太田氏の家臣である宮城氏と舎人氏と北条氏に従属していた武蔵千葉氏が存在した。足立区域は北条・上杉・里見の大勢力が衝突する境目だった。武蔵千葉氏は北条氏から養子迎えたがその後は北条氏が秀吉に負け滅びると武蔵千葉氏も没落、中曽根城も廃城となった。

第2回 足立区唯一の城址 中曽根城発掘調査報告 
講師:桝沼由可子氏(足立区地域文化課学芸員)
武蔵千葉氏の城址と伝えられる中曽根城の存在が『新編武蔵風土記稿』(1830年成立)に記載されており、「千葉某ノ城蹟ト云所アリ、六丁四方(650m四方)、外堀ノ堀、及ビ土居ノ蹟ノミ残レド…」とあり本木村にあると思われていたが、平成6年12月に本木2丁目の発掘調査で堀跡を発見し、中曽根城の姿が明らかになった。中曽根城の範囲は本木2丁目の中曽根神社境内付近(本丸と推定)、白元足立ビル周辺である。発掘により中曽根城の郭を巡る濠跡がでた。濠跡は長さ19m、幅7m、深さ1.2m、出土した遺物はカワラケ(古墳時代の土器の系統)、板碑(中世に石材を板状に加工した卒塔婆)、獣骨など。また地底探査レーダーで中曽根城の復元が進んでおり、地積図とあわせて低地を見下ろす中曽根城の威容が想定される。

 

第3回 現地学習:瑞応寺(夕顔観音)・吉祥院・中曽根神社(城址)
講師:中島剣山氏(瑞応寺住職)
武蔵千葉氏関連の寺社、中曽根城址の現地学習を実施した。「瑞応寺」(武蔵千葉氏の菩提寺)に集合し住職より瑞応寺の歴史を解説頂いた。1498年開創、観音堂に武蔵千葉氏ゆかりの「月星紋」がつけられ「夕顔観音」呼ばれる聖観世音菩薩像がある。次は「吉祥院」で本木村の開発とゆかりが深く江戸時代の江戸4寺の一つで中本寺で立派な寺院である。次は「冬木屋敷、冬木弁財天、田中稲荷神社」で江戸の材木商冬木屋の別邸である。次は「宝寿院」で武蔵千葉氏の祈願で本尊は不動明王で閻魔大王含めた十王像があり死者は十王の裁きを受け来世の場所を定められると云われている最後は「中曽根神社」で中曽根城址で発掘により堀跡がでて武蔵千葉氏の居城であることが明確となった。現在は中曽根神社がある。約3時間の散策でしたが多くの寺社を見て戦国時代の足立を想い充実した時間でした。

 

受講者のご意見:戦国時代の足立に興味があったのでとても勉強になりました。足立に住んでいながら歴史について無知でした。中世における足立のポジションがわかり、ありがとうございました。
                                                (福田哲郎)




   

あだち区民大学塾講座 講座開催報告

戦国時代の足立  武蔵千葉氏と中曽根城・瑞応寺

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