【講座開催日】2023年5月15日・22日・19日

   5月15・22・29日(月)の3回にわたり研修室1において開催された。応募者は51名、受講者は44名。出席者は第1回39名・第2回40名・第3回38名・合計117名であった。第1回と第3回は雨天で欠席者が多かった。講師は國學院大學兼任講師で中世・近世史がご専門の平野明夫氏。

                       

第1回は「室町幕府の確立(尊氏①~義量⑤)」。1333年足利尊氏・新田義貞が挙兵して、鎌倉幕府が滅亡した。尊氏は1336年「建武式目」で幕府の方針を示し、1338年征夷大将軍となり室町幕府がスタートした。講義はまず室町幕府の特徴である管領の役割が説明された。管領は将軍を助け政務を総轄し、儀式や行事を執り行った。鎌倉時代の執権は実権を握っていたが、室町時代の管領は将軍の補佐的な役割であった。当初は足利家の補佐役の執事がそのまま幕府におかれたが、執事・細川頼之は3代将軍・義満が元服すると、将軍の親裁権と補佐役とを分離し、執事を管領に改め、命令系統を将軍→管領→守護に統一した。管領は室町時代を通じてほぼ斯波・細川・畠山の三氏が務めた。又、鎌倉時代には公家は京都・武家は鎌倉と別れていたが、室町時代は御所(公家)も幕府(武家)も京都に置かれた。系図によると足利氏は清和源氏であるが三管領の斯波・細川・畠山氏もその一族である。鎌倉幕府を滅ぼした初代・尊氏から5代・義量までに室町幕府は確立した。この間1336年尊氏の光明天皇擁立に対抗し、後醍醐天皇は吉野に南朝を開き南北朝時代となるが、南朝第4代の後亀山天皇が北朝6代の後小松天皇に譲位して、1392年義満の時に南北朝は統一された。

                       

   第2回は「将軍の専制から混乱へ(義教⑥~義澄⑪)」。4代・義持は嫡子で5代の義量が死亡しても6代将軍を指名せず、義持の死後にくじ引きで決定することになった。義持の死の翌日石清水八幡宮神前で義円(後に義宣・義教)が選ばれ6代・義教が翌年に元服して即位した。義教は訴訟制度・軍事制度の変更や遣明船の復活などを行った。一方で大量の処罰を行うなど「万民恐怖の世」と言われた。結局、勢力削減を恐れた守護・赤松満祐に暗殺された。義教の子の義勝が7代となるが翌年死亡し、弟の義成が8代・義政となった。義政の妻は日野富子。義政は管領や有力守護を避け、近習を重用し、将軍権力の強化を狙うが、側近が離反し政治の混乱と社会不安が増大した。1467年応仁の乱が起こる。東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が将軍の後継者と畠山氏と斯波氏の家督争いで対立し、両者が1473年に死亡し、1477年に10年にわたる長い騒乱は収まった。9代は義政の子の義尚が10代は甥の義稙(義材)が後継者になった。管領・細川政元は義稙を廃して11代・義澄を擁立する(明応の政変)が、管領の役割は儀式が中心となり政治的な意味はなくなっていった。応仁の乱以降、幕府の権力は衰え戦国時代となってゆく。

   第3回は「戦国時代の室町幕府(義晴⑫~義昭⑮)」。
12~15代は11代・義澄の子や孫が擁立されたが、15代
・義昭は12代義晴の次男で興福寺一乗院の門跡であった。
兄の13代・義輝が三好義継に殺害されたが、義昭は織田
信長の後ろ盾を受け、14代・義栄の死去により、1568年
に征夷大将軍に任ぜられた。1573年義昭は浅井・朝倉と
結び反信長の挙兵をしたが、反信長勢力は次々に敗北して
室町幕府は滅亡した。しかし、義昭は鞆(広島県福山市)
へ移り征夷大将軍であり続け、本能寺の変の後は秀吉の許
しを受け帰洛を果たす。1592年秀吉の朝鮮出兵に随行した
が、1597年大阪城で死去し、足利将軍歴代の菩提寺である
等持院に移された。60歳であった。

 受講者の言葉:
室町時代における不安定な将軍家とその側近である政権を
担う三管領、そしてそれを支える各守護大名、後継者争い、
幕府政権内の権力闘争、そして領国で着々と勢力を貯えた
守護代の軍事力増大による内乱が、応仁の乱へと移り、戦
国大名たちの下剋上が開始され、大変興味深い講義でした。
                                                               (糸井史郎)


   

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室町時代 足利将軍と三管領―斯波・細川・畠山

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