生涯学習団体とのリンク
「楽学の会」顧問の先生方からの寄稿文
「 大震災と生涯学習 」
平沢茂 文教大学教育学部教授,同大学院教育学研究科長
(平成23年 4月 寄稿)

   この2つは無縁だろうか。そうではない。生涯学習の源流となったラングランの生涯教育論は、危機に立つ人類への警告であった。なぜ、生涯教育が必要か。彼が2つめに挙げた理由が「人口の増大」である。地球環境の激変、ひいては人類滅亡の危機を予測し、その危機を脱しうるか否かは人が本当の知恵を持てるか否かにかかっていると論じたのだ。大震災後の原発騒動を見るにつけ、ラングランの指摘の重さが身にしみる。
   「悲観的に備え、楽観的に対処する」。危機管理の大原則だ。原発騒動を見ていると、正反対であることがよく分かる。超高層ビルが建つたびに、私は「大丈夫か」と思ってきた。しかし<専門家>は「大丈夫だ」と言い続けた。原発も同じだ。想定外などという言葉での言い逃れは許されない。「悲観的に備え」なかった不明を恥じ、詫びてもらいたい。
   何が妥当か多角的に考える力、生涯学習で我々が目指すべきものがそれだ。雑学でよいのだ。雑学で得た情報や知識を基に多面的に考え、合理的な結論を得る。これこそが、今必要な我々の力だ。似非専門家に惑わされない真の知力を身につけよう。楽学の会に期待するところ大である。



「 火鉢のある生活・・・大災害が突きつける問い 」
薗田碩哉 実践女子短大教授
(平成23年 3月 寄稿)

 未曽有の大災害である。地震、津波に原発事故の三打撃が日本社会に与えた爪痕は深く、また、広い。これが致命傷にならなければいいのだが、回復するにしても長い時間がかかるだろう。その過程でわれわれの生活のスタイルや価値観が根底から問い直されることは必至である。
   計画停電でテレビはおろか暖房も使えなくなり、物置から火鉢を取り出して炭を起こした。実はこの炭はついこの間、近くの公園の炭焼き窯でわが「さんさんくらぶ」の親子が参加して焼き上げた出来立ての炭である。「くらぶ」では谷戸の水田でお米作りもしていて、採れたお米で餅を搗いた。炭火で餅をあぶって食べながら昔の暮らしを思い出した。
   私たちはこの半世紀ほどの間にまことに便利で快適な暮らしを実現したわけだが、大災害はその文明生活の脆さや危うさを突きつけてきた。自然を破壊し、農業を捨て、伝統文化を忘れ、あまつさえ地域の人の繋がりさえ等閑視する「無縁社会」で人間が幸せに生きられるはずもない。被災地ではすでにさまざまなレベルでの助け合いが始まっている。私たちの生涯学習は、人間の絆を、また、自然と人間とのよりよい関係を取りもどす総合的な試みであるべきだろう。



「 市民大学の動向を調査中 」
瀬沼克彰 桜美林大学名誉教授 人間科学博士
(平成23年 2月 寄稿)

   現在、「全国の市民大学」の調査を実施している。全国的に市民大学とか、市民塾という住民主体の本会と同じ種類の学習講座が活発化している。
かって1996年に、全国調査を実施して、概況を報告書にまとめたことがある(宇都宮大学生涯学習センター年報)。その後、所在が把握できないので伸び伸びで、2回目が出来なかったが、本年度、市民大学の全国組織である全国生涯学習ネットワークも10周年を迎えたので、拓殖大学の有馬廣實教授に手伝ってもらって調査を行った。
    一口に市民大学といっても千差万別で一定の条件をつけないと対象をしぼりきれない。そこで、5つの条件を設定した。本会は条件をすべてクリアしているので回答してもらった。対象とした232の団体に郵送法で、106件の回収が出来た。現在、設立年、講座数、受講者数、運営組織、運営上の課題、今後の展望などについて集計し、報告書を3月までに刊行したいと作業を行っている。
各市民大学の課題で、近年参加者が集まらなくなってきたことと、高齢化が最大の課題という結果が出てきた。行政主導の代替装置としての「市民大学」の動向について、本会の会員に読んで欲しいと思っている。



「 今年の生涯学習の行方 」
崎山みゆき 静岡大学大学院客員教授
(平成23年 1月 寄稿)

  文部科学省の政策から「生涯学習」という言葉が激減しています。ここで改めて私達支援者は、自らの役割について考えなおす時期に来たと感じています。代わって挙げられているのは「大学の研究費」「スポーツ立国」「キャリア教育」など、今迄の私達には耳慣れないものですが、洞察すると生涯学習の概念は根底に生きていることがわかります。
ここで今までと違う点が三つ挙げられます。一つ目は、高度化です。高等教育を視野に入れた内容が求められ始めました。私も静岡大学大学院でコミュニケーション能力開発の講義をしていますが、社会人ニーズは募るばかりです。二つ目は、更なる継続性です。高齢者もキャリア開発のため、今まで以上に学び続けることが必要です。三つ目は総合性です。一種類の講座をシリーズ化するだけでは駄目であり、多様なものを組み合わせます。スポーツも技術習得だけはなく、マネージメントや論理性を身につければ、国際的な地位を築く事ができます。
私達支援者は、地域から全国・世界に飛び出すことを求められているのではないかと、この原稿を書きながら感じています。皆様と共に大きく飛び跳ね、兎年を満喫致したく、宜しくお願い致します。



「 学ぶことから活かすことへ 」
斎藤哲瑯 川村学園女子大学教授
(平成22年12月 寄稿)

   「生涯教育」が提言されて45年が経つ。この間に我が国では、学校教育改革に力を注ぐとともに、「人生を豊かに生きていくためには、各人の自発的意思に基づき、必要に応じて自己に適した手段・方法を自ら選んで、生涯を通じて行うものである」(中央教育審議会昭和56年)と説いた。また臨時教育審議会は、「提供する側の生涯教育から、学習者の立場に立った人々の学習支援に力を注ぐべきである」と提言し、昭和60年代初頭から「生涯学習」が使われるようになった。
 さらに中央教育審議会(平成2年)は、「生涯学習は、学校や社会の中で意図的・組織的な学習として行われるだけでなく、人々のスポーツ活動、文化活動、趣味、レクリエーション活動、ボランティア活動などの中でも行われるもの」と、学校教育も含めた考え方である旨の説明をしているが、生涯学習が力説されたため「学校終了後あるいは学校教育外の学習活動」とのイメージを、多くの人々に与えてしまったようである。
広辞苑をみると、学習とは@学び習うこと、A過去の経験の上に立って新しい知識や技術を習得することと説明し、学習は個人的な行為の範疇であることを示している。        
とはいえ、環境・エネルギー問題、人間関係の希薄化や孤立・孤独化など、今日生じている重大な問題は、もはや各個で解決することは不可能と言えよう。コミュニティーが崩壊した今、個人、家庭、学校、行政、研究機関、民間等も含めた知恵のネットワーづくりとともに、問題解決に向けた実践行動が必要になっているのである。「楽学の会」への期待は今以上に大きくなるであろうし、「学ぶことから活かすことへ」の視点を持って、その先頭に立ってもらいたいと切に願っているところである。



「 満足度の高さが伝えるもの 」
大久保邦子 文化ボランティア・コーディネータ
(平成22年11月 寄稿)

   あのときの強烈な印象は今も鮮明に残っており、私にとっても貴重な学びになっている。数年前、「楽学の会」と「大田文化の森運営協議会」双方の関係者20名ほどが交流し、全員が活動の感想などを述べ合ったときのこと。条件としては経費も会場も区から提供されている大田文化の森が数段いいはずだった。なのに、一人ひとりの活動の満足度は圧倒的に「楽学の会」が高かったのである。
「大田文化の森運営協議会」は、公設の文化センターを市民が運営する極めて質の高い、全国的にもトップレベルの文化活動である。その大田より「楽学の会」のほうが、一人ひとりの満足度が高かったということは何を意味するのだろうか。行政の支援はないほうがいいと思われては心外だが、「楽学の会」が質の高い講座を提供する陰には「自分たちの力でやっているのだ!」という自負と達成感があるのではないだろうか。「楽学の会」の成功の秘訣はそこにある。
河合元文化庁長官のことば「悩みや苦労を乗り越えてこそ楽しさがある!」は蓋し名言である。




「 志しを掲げてまちへでよう 」
興梠寛(こうろきひろし) 昭和女子大学人間社会学部教授
(平成22年10月 寄稿)

   那覇市の『牧志公設市場』(まきしこうせついちば)には、南国の魚介類や農畜産物、土産物など多彩な実りの花が咲いている。「アンタ、東京のヒト?おみやげを買うなら、私のつくったラフテーにしなさい」 そういわれて、思わず「ハイ!」と答えてしまった。 “お婆”の一声には、何の抵抗もできない。凛とした声色は心を捉え、心を癒す笑顔には不思議な信頼感が漂う。その魅力は、輝く年輪の“結晶”から生まれたものだ。
 沖縄の“お婆”“お爺”の活躍ぶりは市場だけではない。宿泊したホテルのフロントでは、鮮やかな色彩の“カリユシ・シャツ”を羽織った“ハンサムお爺”たちの出迎えを受けた。南国の魅力溢れる素敵な高齢者たちは、まちの商店で看板役をつとめ、農産・漁村では現役のはたらき手として、経済の活性化や地域おこしの一翼を担っている。
 高齢者が地域や国際社会を舞台に“生涯現役”で活き活きとはたらく。そのための生涯学習計画づくりこそ『楽学の会』の新たなミッションではないかと思う。
 ニッポンの“お婆” “お爺”よ、志しを掲げてまちへでよう。