【講座開催日】2022年7月1日、8日、22日

   7月1・8・22日(金)の3回にわたり、研修室1において開催された。応募者は52名、参加者は45名、第1回は45名・第2回は41名・第3回は42名で累計は128名であった。講師は國學院大學兼任講師の平野明夫氏。昨年10月の「徳川家康研究の最前線『東照神君』の実像」に次いで、2回目の講義となった。

                          

   第1回は「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」というタイトルで織田信長の生涯と転換点となった4つのエピソードについて説明された。1つ目は父の信秀が経済力をつけて信長が台頭する土台を作ったこと、2つ目は戦国武将の名を挙げた桶狭間の戦いで今川義元を破ったこと、3つ目は従三位右大臣になったものの足利氏のように征夷大将軍になろうとはしなかったこと、4つ目は本能寺の変と明智光秀との主従関係について解説された。

      

   第2回は「鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤」というタイトルで豊臣秀吉の4つのエピソードが説明された。1つ目は秀吉の出自で、木下・羽柴・豊臣と姓を変えているが、木下は奥さんの家の姓で、羽柴は1575年に丹羽氏と柴田氏から一字づつもらったものである。2つ目は信長の死を知った秀吉が毛利氏と講和して備中高松城から引き返した中国大返しで、天下取りの素早い動きが紹介された。3つ目は天下人としての秀吉で1585年関白就任に際し、近衛家の養子となって藤原姓になり、翌年太政大臣となり朝廷から豊臣姓が贈られた。秀吉も将軍でなく関白・太政大臣となった。4つ目は晩年の朝鮮出兵で、朝鮮の後に中国まで支配するつもりであったことが説明された。

          

   第3回は「なかぬなら鳴くまで待よ郭公 大権現」というタイトルで徳川家康の4つのエピソードが説明された。1つ目は家康の出身地は現豊田市の松平で祖父清康と父広忠が現岡崎市に進出したこと。第2のエピソードは三河一向一揆に勝利して家臣団の反対派を一掃した。第3のエピソードは征夷大将軍に任命されたこと。第4は1605年に秀忠に将軍職を譲った後も駿府城で実権を握って大御所といわれた。最後に三英傑がなぜ現愛知県に相次いで生まれたかについては、定説はないものの信長と秀吉、秀吉と家康はそれぞれ主従関係で、権力争いはせず、権力者が死を迎えた後に、それを引き継ぐことで権力が継承されたためと思われる。

受講者の言葉。
・戦国時代に活躍した三英傑の一人ひとりの生涯について詳細にわたり講義が展開され、興味深く改めて三人の認識を得ました。今後もこういう型で講座が企画されることを希望します。
・家康の出自の話は大変ためになりました。歴史に強くない私でしたがとても良かった。
・興味深く拝聴しました。色々の視点があるので参考になりますが、文章が難解で理解が難しい。
・本能寺の変をもう少し深くお聞きしたいと思いました。等                                               (糸井史郎)



   

あだち区民大学塾講座 講座開催報告

「信長・秀吉・家康」 戦国三英傑の謎

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