
あだち区民大学塾講座 講座開催報告
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講座開催報告
【講座開催日】2026年03月03・10・17日
講師:島田紀夫氏 元ブリジストン美術館館長
講座の報告
モネやルノワールなどの画家たちがのちに「印象派」と呼ばれるようになったのは、彼ら(彼女ら)が開いたグループ展がきっかけでした。1874年(明治7年)から1886年(明治19年)までの12年間に8回のグループ展を開かれました。当時、画家が作品を発表する「場」は国(美術アカデミー)が主宰する「サロン」と呼ばれる官展しかありませんでした。サロンには審査があり、応募しても審査が通らなければ(入選しなければ)作品は展示されません。サロンは旧来の伝統的な規範に則って審査をしていたので、印象派と呼ばれることになる画家たちの作品はなかなか入選しませんでした。彼ら(彼女ら)はテーマ(主題)も技法も美術アカデミーやサロンの基準から外れていたからです。

グループ展に参加した画家は50人を超えます。しかし、テーマや技法の点で印象派と呼ばれるようになるのは7~8人です。テーマも風景画と都市風俗画が主流でした。8回のグループ展は4回目からグループの性格が変わっていきます。風景画を探究したルノワールやモネが参加をとりやめ、都市風俗画を得意とするドガ一派がグループ展の中心になったからです。
今回の講座は印象派グループ展の1回展から3回展の出品作品を取り上げました。いまの私たちが「印象派」というイメージを形作る基礎になった作品が結集しているからです。

第1回 1874年最初の印象派グループ展 ―モネ《印象、日の出》
1874年、パリ、オペラ座にほど近いカピュシーヌ大通りで「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第一回展」が開かれました。「印象・日に出」は、風刺新聞「シャリヴァリ」紙に「何たる勝手気ままさ、未完成の壁紙だってこの作品に比べれば仕上がっている」とからかった。このことから皮肉なことに『印象派』という名で呼ばれることになった。この展覧会がその後に続く「印象派展」のスタートとなりました。
第1回展は、「印象派」という名称が誕生するきっかけになった モネ《印象、日の出》(マルモッタン・モネ美術館)をはじめ、ルノワール《桟敷席》(コートールド美術研究所)、ドガ《踊りのレッスン》(メトロポリタン美術館)、ピサロ《白い霜》(ワシントンNG)、セザンヌ《オーヴェール=シュル=オワーズの首つりの家》(オルセー美術館)、ベルト・モリゾ《ゆりかご》(オルセー美術館)などをスライドで鑑賞しました。

第2回 1876年 「新しい絵画」の誕生 -ドガ《ニューオリンズの木綿事務所》
1876年、二回目のグループ展を開催した。第一回目は作品にほとんど値が付かず結果は惨憺たるものだった。
グループ展は失敗し負債を抱えて解散してしまった。その資金灘を解消したのが資産家のカイユボットだった。彼の資金提供により資金難を解消し、第二回絵画展を絵画のみの展示で開催。前回よりグループ展の方向が明瞭になった。
第2回展は、都市風俗画(労働)の代表作ともいえるドガ《事務所内の肖像(ニューオーリズ)》をはじめ。ルノワール《習作(陽の光のなかの裸婦)》(オルセー美術館)、モネ《ジャポヌリー(日本趣味)》(ボストン美術館)、カイユボット《床をけずる人々》(オルセー美術館)、ドガ《アイロンをかける洗濯女》(ノートン・サイモン美術館)、ピサロ《シューの小丘》(メトロポリタン美術館)をスライドで鑑賞しました。

第3回 3月17日(火)1877年「自然の記録」(風景画)と「文化の観察(風俗画)」
―ピサロ《赤い屋根》とルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場》
1877年、まずまずの成功を収めた第二回印象派展の翌年、前回欠席のセザンヌも参加し、「印象派」という言葉が飛び交うようになり、いよいよ印象派的色合いが濃くなり方向性がはっきりしてきた。
第3回展は、都市風俗画(行楽)の代表作ともいえるルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場》(オルセー美術館)をはじめ。セザンヌ《静物(デザート)》(フィラデルフィア美術館)、モネ《サン=ラザール駅》の連作(オルセー美術館ほか)、カイユボット《ヨーロッパ橋》(プティ・パレ美術館〈ジュネーヴ〉)、ドガ《カフェにて、アプサント》(オルセー美術館)などをスライドで鑑賞しました。
金子勝治
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撮影現場↑